雑記2 自殺についての考察

自殺 Suicideと聞くと,あなたはどのような印象を受けるでしょうか.まずはここから議論を始めることにします.きっとたいていの人の考えは,

 ・自殺は絶対的にいかなる状況でもすべきでない

 ・生きていればそれでよい

 ・(所属する宗教の理由から)許される行為ではない

 ・自殺なんて言うものは臆病者のすることだ

といったようなものでしょう.

 

まずは自殺について論じるときに,以上のような論駁が生じるときに思うことを述べたいと思います.上の論駁は,確かに一般的には正しい事実です.ただし,私たちは実際に自殺を考えている人,または自殺をした人が「一般的」ではなかったことに注意すべきです.一般的,というとなにか誤解が生じるかもしれませんから別の言葉で述べると,自殺を考える時点で,その人は「正常ではない」ということです.これは精神疾患が云々ということではなくて,その人を取り巻く環境,およびその人の内面が「正常ではない」ということです.

 

「人は,余裕の有る時だけ偉そうなことが言える」.これは私の座右の銘なのですが,まさにその通りなのです.上で示したような論駁は,「余裕がある」からこそ言える事なのです.その人が何に追い詰められているかはわかりません.いじめ,借金,リストラ,学業不振,人間関係,などなど.理由は多々ありますが,彼らは確かにその理由によって追い詰められているのです.そういった状況の人々に,一般論をぶつけるのは言葉の暴力以外の何物でもありません.

 

それでも死んだらすべてが終わってしまうではないか.そういう声が聞こえてきそうです.この反駁は少しの未確定事項により議論が構築されています.つまり,「生きていれば必ずいいことがある」ということです.確かに,私たちは生きていればいいことに遭遇することはあります.しかし,自殺を考える人というのは,もはやいいことを受容するための能力を失っている場合が多いです.というより,いいことがあっても,ほかの悪いことですべて塗りつくされてしまうのです.

 

私も何度か自殺を考えたことがあります.しかし,今私は死んでいません.結局それは私が怖気づいたからです.正直に告白すれば,私は臆病者なのでしょう.死のうにも死ねず,といった状況です.私は当時,相当大きな問題を抱えていました(法的に云々があった).それでも死ねなかったのです.その死を考えたのは中学校の頃でした.「大人にもならず,子供のうちの苦しみなんて小さいものなんだから」という本質をとらえきれていない反駁は無視します.少なくともその段階までにしか成長できていない人にとって,その問題はとても大きな問題なのです.苦しみは人と比べることはできないというのは人口に膾炙した言葉ですが,この事実を理解する必要があります.

 

それでは,私の自殺についての意見を述べたいと思います.私は,自殺はその人がそうと決めたならば許容されるべきであると考えます.自殺を考えたこともないような人には理解できないでしょうが,死を決意するのには相当な覚悟がいります.その覚悟を終え,ついに実行するというその段に来たならば,もはやその人ではない我々に解決法はないのです.死とは最後の救いです.ALISON兄貴という人が投稿した「宇宙の死を見た不老不死」には,「死こそは最後の救済,最も尊い救済手段」といったような記述がみられます.これはまさにその通りです.その人が,最後に救いを得んがため死に縋ったのならば,私たちは,死にゆく人の最後の願いとして,それを受け止めなくてはならないのです.死を決意した人に,私たちは何も言ってはいけません.その尊い決意を,泥にまみれさせてはいけないのです.

 

最後に,自殺を考えている人に少しだけ言葉を送りたいと思います.私は自殺をするななどという無責任なことは言いません.決意をしたならば,私はそれを尊重します.ただし,もしも心残りがあるならばそれを解決してから逝きましょう.いじめられているのなら,いじめっ子を殺しましょう.お金に困って何もできなくなっていたのならば,親と縁を切って,好きなだけ借金をして,貪食し,女体をむさぼり,そして逝きましょう.